2013年9月29日日曜日

モルグ街の殺人


こんにちは。
今回は、エドガー・ア・ランポーの、モルグ街の殺人を読んだので、記録します。

登場人物のデュパン曰く、ホイストというトランプゲームに達者な人は、他の面でも観察力を活かすことができるようです。
ホイストというトランプゲームが何なのか、僕には分からなかったので、調べてみると、ウェブ上でホイストを遊べるサイトがありました。

ホイストが遊べるサイト:

この物語上を読んでいると、犯人はどんな「人物」なのか、想像してしまいます。
しかし、それを想像すること自体、焦点がずれている、と途中で気づかされるのです。

犯人は誰なのか、を考えさせる内容で、結末わかると、なんだ、そんなことか、と思いました。

犯人が人間ではないと明かされ、猩々(しょうじょう)という動物?が登場するのですが、英語ではなんと訳すのでしょうか。
中国の伝説上の生き物ということですが、物語を読んでいるとゴリラを想像しました。

デュパンに解けて、警察を総動員しても解くことができない事件。
警察とデュパンは一体何が違うのでしょうか。

"この一見『不可能』らしく見えることが実際はそうではないということを証明することが、僕たちに残されているだけなんだ。"


警察が調査に苦戦して、デュパンが推理することができたことを表す言葉の一つだと思います。

ありえない、と思うことに嫌疑をかけて調べてみるところにデュパンと警察の違いを僕はみます。

デュパン、頭脳明晰です。 

2013年9月26日木曜日

闇の書

こんにちは。

梶井基次郎の闇の書、を読みました。

これで梶井基次郎の作品を読むのは、檸檬、蒼穹、に続き3作目になります。

いつ頃の作品なのかと思い、Googleさんで"闇の書"とキーワード検索してみました。

すると、検索トップページには梶井基次郎関連のページは載っておらず、アニメ関連のページ検索結果が出てきました。

そこで、"梶井基次郎"もキーワードに加えました。

僕はてっきりWikipediaが出てくるのかと思ったのですが、もっと詳しい文を見つけることができました。


この記事によると、梶井基次郎は、マルクスの「資本論」を読んでいたそうです。

図書館で見たことがあるのですが、分厚いなあ、と思いました。
高校の時の世界史の先生が、読破できなかった唯一の本、と言っていたのを思い出しました。

ところで闇の書の冒頭ですが、

私は村の街道を若い母と歩いていた。

とあり、その後も家族のことが書いてあるのですが、あまりよく理解できませんでした。
若い母と歩く、というのもよくわかりませんでした。

タイトルが闇の書たる由縁も、見つけることができませんでした。
ただ、闇に通じるものは、途中出てくる路なのかと思います。

なんだかブラックホールみたいだな、とも思いました。

エッセイ的?な物語、でした。

2013年9月24日火曜日

蒼穹

蒼穹
梶井基次郎


こんにちは。
今日も青空文庫から、梶井基次郎の蒼穹という作品をよみました。
この作品も檸檬と同様、ページ数が少なくて短時間で読むことができたので、繰り返して読みました。

最初のページでLotus-eaterという単語が出てきたので調べてみました。

1.  ギリシャ神話で、ロータスの実を食べて安逸に暮らした人
2.  世事に無関心な夢想家

梶井基次郎は、彼の作品を読んでみると(まだ2作しか読んではないのですが)もしかすると、世事とは離れたところで安逸な生活がしたかったのではないかと思われてきます。実際にそのように生活していたのかもしれません。


この物語の季節は晩春。そんな午後に、主人公は空を眺めています。
紫色の空であり、その風景がやはり、僕の目にうっすらと浮かんできます。

紫色の空をイメージして、僕は綺麗な空が浮かんだのですが、というかたいていの場合、僕は空を見上げると、その壮大さにスカッとすることが多いのですが、蒼穹の主人公は違いました。

蒼穹、主人公も、梶井基次郎本人なのではないかと考えさせられますが、彼の目には、姿を変えゆく空が闇として映し出されています。

まだ日に沈まない空を闇に例えるような心情が、やはり気になりました。

2013年9月22日日曜日

檸檬

檸檬
作者:梶井基次郎


こんにちは。今日もまた、青空文庫から、梶井基次郎の檸檬を読みました。

ページ数は少なく、サラッと読み終えました。

梶井基次郎ついて、また、この作品である檸檬については、Wikipediaに詳しく書いてありました。

Wikipedia URL:http://ja.m.wikipedia.org/wiki/檸檬_(小説)

作者の梶井基次郎さんは、結核で若くして(31才)亡くなられた方で、先日読んだ風立ちぬに然り、昔は結核が重大な病気だったことがわかりました。

中学時代を、僕が今住んでいる三重県で過ごした事も知り、なんだか少し親近感が湧きました。

風立ちぬ、を読むまでサナトリウムという結核患者が入院する施設があることも知りませんでした。

Wikipediaによると、1925年の同人誌「青空」に載ったのがはじめて人目に触れたと思うので、僕の計算が正しければ彼はそのときまだ26才です。

同人誌に掲載されたのがその年齢だとすると、おそらく書き上げたのはもっと若い頃だということになります。

僕とあまり年齢の変わらない青年が、こんな文章を書く事ができることに感銘をうけました。

いっぺん読んだだけでは、ちょっと物足りないというか、ページ数も少ないことだし、冒頭から読み返してみました。

最近、東進ハイスクールの林先生(いまでしょ、の先生です)が、「本を選ぶときは、その冒頭で決めるといい」というような事を言っていたのですが、この物語の冒頭に僕は「おやおや、」と思いました。

檸檬の冒頭は、この一文から始まります。


えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。


梶井基次郎は、 自分の身辺のことを題材にするそうですが、なんだか、何かに悩んでいるのか、なにかをしょっているのか、主人公は梶井本人ではないにしても、作者の心境を思いやりました。

えたいの知れない不吉な塊、というなんとも黒々とした、丸い物体を僕は思い浮かべました。しかも始終、押さえつけられていたら、たまらないな、と思いました。

そんな感じの心象描写があり、物語に登場する檸檬が、ひときわ爽やかなイメージをくれました。

京都の道を歩く主人公が見ている風景を、僕の目を通しても見ることができたように思います。

梶井基次郎という作家を僕は知りませんでしたが、作品が多く残されているようなので、少しずつ読んでいこうと思います。

もしかしたら、好きな作家の一人になるような気がします。

2013年9月20日金曜日

風立ちぬ

風立ちぬ、いざ生きめやも

こんにちは。

今日は、青空文庫から堀辰雄の風立ちぬを読みました。

この作品は宮崎駿監督の最新作、風立ちぬ、の原作です。

生きること、幸せとは何かを考えさせてくれる物語でした。

愛する者との限りある時間を意識すれば、どんな些細なことをも共有し合えるんだと思いました。

この物語の主人公は、堀辰雄本人の実体験を元にした物語だそうですが、堀辰雄はこんなに人を愛し、感性豊かな主人公を表現していて、感情移入できる作品でした。

僕は最近、これほどまでに胸が締め付けられる感情を抱くことがないと思い、この感情移入に、少し心がほっこりしました。

宮崎駿の風立ちぬ、に通じる情景が浮かび、堀越二郎の場合は飛行機作りであり、堀辰雄の場合は、小説なんだな、と勝手に納得しました。

節子(主人公の恋人)のことを、病人、と呼んだり、節子と名前で呼んだりするのが交互に行われ、一瞬誰を指しているのかわからなくなることがあった。

終盤、節子の登場回数が減るが、死んでしまったのか、おそらくそうだと思いました。

節子が登場しなくなってから、サナトリウムが出てくるのも減り、時々その単語が文中にあると、サナトリウムという場所が、異様な場所に思えてきました。

物語の中盤で、あれだけ感情移入させていた物語は、読み終えてみると感動するというよりは、一種の虚無のようなものを感じました。

これは余談ですが、今一番自分の近くにいる人を、近くにいることが当たり前と思ってしまっている自分に、その当たり前の時間を大切にすることを気づかせてくれる作品でした。

風立ちぬ、いざ生きめやも


シグナルとシグナレス

こんにちは。

今回は、宮沢賢治のシグナルとシグナレスという物語を読みました。

Wikipediaによると、この作品は1923年の作品だそうです。

読んでみて真っ先に思ったのは、シグナルとは、シグナレスとは誰かということでした。

本文には、まっすぐなシグナルの柱がシグナレスと書いてあるのですが、僕にはシグナルの柱というものがわかりません。

電信柱登場で、銀河鉄道の夜を思い出しました。確か、銀河鉄道の夜にも電信柱が出てきたような気がします。

電信柱を擬人化していることに気がつきました。
シグナレスが女性でありシグナルが男性です。

メリケン国のエジソン様。この表現は、メリケン国がアメリカを示しているのでしょうか。

涙を知らない電信柱どもが、ゴゴンゴーゴーというあたりから、シグナルとシグナレスが語り合っている情景を目に浮かべることが、易しくなります。

Wikipediaによると、シグナルがシグナレスに語る、「愛してくれ」という表現は、愛する、という表現をはじめて愛情表現として用いた例であるそうです。

宮沢賢治の偉大さが、わかってきました。

この物語をよむとなんだか優しい気持ちになれるような気がします。

2013年9月18日水曜日

ジャン・クリストフ1

ロマン・ローラン作
豊島与志雄
岩波文庫

こんにちは。

今日も、大学時代に読んでいた、ジャン・クリストフという本がもう一度読みたくなって、というよりは、あの長編が記憶に残っているかどうか確かめたくて、本棚から引っ張り出してきました。

このジャン・クリストフという作品は、1巻から4巻まあり、文字が小さい上に各巻それぞれ500ページ以上あるという長編です。





フランスが舞台であり、一人の男の人生を、当時のフランス様子など、こと細かく描いています。

僕は現在、2巻まで所有しており、2巻の途中まで読んだのですが、それが大学生の時だったので、どこまで読んだかわからなくなってしまっていました。

ちょっとパラパラっと読み返してみると、主人公であるクリストフが人生に打ちひしがれている時、ゴッドフリードなる人物が彼にかけた言葉が良いです。

「日の出にたいして、信心深くなければいけない。一年後のことを、十年後のことを、考えてはいけない。今日のことを考えるんだよ。理屈を捨ててしまうがいい。理屈はみんな、いいかね、たとい道徳の理屈でも、よくないものだ、馬鹿げたものだ、害になるものだ。生活に無理をしてはいけない。今日に生きるのだ。その日その日にたいして信心深くしてるのだ。その日その日を愛し、尊敬し、ことにそれを凋ませず、花を咲かすのを邪魔しないことだ。今日のようにどんよりした陰気な一日でも、それを愛するのだ。気をもんではいけない。ごらんよ、今は冬だ。何もかも眠っている。がよい土地は、また眼を覚ますだろう。よい土地でありさえすればいい、よい土地のように辛抱強くありさえすればいい。信心深くしてるんだよ。待つんだよ。お前が善良なら、万事がうまくいくだろう。もしお前が善良でないなら、弱いなら、成功していないなら、それでも、やはりそのままで満足していなければいけない。もちろんそれ以上できないからだ。それに、なぜそれ以上を望むんだい? なぜできもしないことをあくせくするんだい? できることをしなければいけない……我が為し得る程度を。」



この引用のあとには、自分が出切ることしかできないのだから、自分のできることをして、それに満足しなければならない、ということが書いてあります。

善良な人物であれば、待ち続ければいつかは花が咲く、というような言動は、敬虔なゴッドフリードならではの言葉だと思います。

話は変わりますがジャン・クリストフ、女性にモテます。羨ましいです。

時間はかかりそうですが、読破したい長編作品です。

大学生の時は断念しましたが、2巻を、読破したいと思います。

盗まれた手紙


こんにちは。

今回は、エドガー・アラン・ポーの、盗まれた手紙、を読んだので、記録します。

エドガー・アラン・ポーの作品は、大学の講義の題材として扱ったことがあったので、もう一度読み返してみようと思い、読んでみました。

大学でどんなテーマでポーを扱ったのか、あまり思い出せませんが、文学的手法や、隠された意味など、とても興味深いものだったように思います。

また、彼の死因には謎めいたものがあることも、興味をそそります。

Kindleに英語版があるのを見つけたので、今度はその英語版に挑戦したいです。

 手紙はどこにあるのか、警察は、伝えられた手紙の風貌が頭にこびりついて、そのフィルターを通してしか手紙を探せなかったのかな。

デュパンは、まず大臣がどう考えて手紙を隠すかを先だてて、探し当てようとするところに警察との違いを感じます。

かかる痛ましき企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ

クレビヨンという人の悲劇“〔Atre'e〕 et Thyeste”に登場する一節らしいのですが、末巻の説明を読んで、恐ろしい悲劇だと思いました。

この作品は、主人公が不在なところが独特だと感じます。

ポーの作品は、読者が第三者の目になって読み進める作品が多いように思います。

2013年9月17日火曜日


こんにちは。

今日もまた、青空文庫を使って、宮沢賢治の作品を読みました。

谷、というタイトルの物語です。

物語のはじめから、宮沢賢治の世界は訪れます。

くるくるする、というのは宮沢賢治が作った造語でしょうか。
眩暈がする、と同義語なように思います。

また、歌をどなる、という表現が出てくるのですが、今の小説でそんな表現は見たことがありません。

わからない単語は、「はぎぼだし」です。
どうやら、キノコの名前?のようですが、間違えていたらごめんなさい。

読み進めていくと、崖の存在感がものすごくて、この物語の中心は崖なんだ思いました。

しかし、タイトルは「谷」であり、なぜ崖、にしなかったのかと少し疑問に感じました。
崖と谷は、どう違うのでしょうか。

底の見えない深淵の崖を、僕は見たことがあるので、昔見た崖を思い出しました。

底に、得体のしれない何かがあるような気が、当時感じていて、その感情が思い起こされました。

今回の作品では動物が出てこなかったので、宮沢賢治、すべての作品に動物を登場させているわけではないのだな、と思いました。

セロ弾きのゴーシュ


著者:宮沢賢治

こんにちは。
今回は、セロ弾きのゴーシュについて、書こうと思います。

この作品は、もう5回以上は読んでいるのではないかと記憶しています。

大学に入ってから、入部した部活でチェロを弾くようになった僕にとって、身近に感じる作品の一つです。

タイトルに、「セロ」とありますが、いつから日本では"cello"をチェロと呼ぶようになったのでしょう。
確かに、セロと読んだ方がスペル的には正しいような気しますが、語源は何語になるのか、気になりました。

少し調べてみると、フランス語風に読むとセロと発音するそうです。

外来語なので、当時はセロと発音することが一般的だったという記述も見られました。

そして、これまでに、注文の多い料理店と、オツベルと象を読んできましたが、聞いたことのない擬音語が多く出てくるなあ、と思っていたのですが、今回のセロ弾きのゴーシュにも、独特な擬音語が出てきました。

その擬音語とは、トォテテ テテテイ、です。

合奏の途中で、指揮者が小節のはじめを表現するための擬音語なのですが、その表現がすごいと思いました。

ゴーシュ、指揮者ずいぶんと演奏を叩かれるのですが、合奏中にゴーシュが叩かれている時の他の団員の様子は、現実的にあると思いました。

宮沢賢治は、実際にチェロを弾いたことがあるのでしょうか。

次の一節は、とても僕の胸響きました。

ゴーシュはその粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもいちど弾きはじめました。

この、壁の方を向いて口を曲げるあたり、そして粗末な箱みたいなセロ、という表現には、ぐっとくるものがあります。

ある楽器を弾くということは、趣味で弾くのなら別ですが、演奏会に向けて練習したり、スコアを何回も読み直したりすることは、命を削る行為等しいと思います。

それでも、音楽から得るものあるために個人練習をするんだと思います。

セロ弾きのゴーシュでは、物語に動物が登場します。

三毛猫、鳥、狸、野ネズミが登場します。この動物たちとゴーシュがやり取りして行くうちに、物語は終盤へと向かいます。

セロ弾きのゴーシュの終盤は、読んでいて気持ちが良かったです。
でも、やはり、最後のゴーシュのセリフが、よくわからないと共に、物語全体に帯を締めるというか、ちょっとしたスパイスを効かせていると思いました。

一生懸命に練習して、最後に認められるのは、気持ちがいいことです。

2013年9月16日月曜日

太宰治情死考


こんにちは。

今回は、坂口安吾の、「太宰治情死考」という文章を読んだので、記録します。

タイトルの通り、太宰治の死について考察する作品です。

太宰治の死、をテーマに、芸道とは何か、というテーマが背後にあると思いました。背後に、というか、むしろそこが主となるテーマなのではないかとさえ思えてしまいました。

カストリという単語が出てくるのですが、文脈から何かの嗜好品であることは予想できました。しかし詳しく知りたく
ウィキペディアで調べてみると、第二次世界大戦後に日本で出回った、粗悪な焼酎である事がわかりました。粗悪な焼酎とは、一体どんな味がするのでしょうか。

この作品の中での名言的部分をあげるなら、以下のものをあげます。

バカ者でなければ、芸道で大成することはできない。
芸道で大成するとは、バカモノになることでもある。

この一筆からは、太宰治はイカれている、という風な感覚と、彼の残した作品に対する畏敬の念みたいなものが伺えます。

太宰が死んだ時の様子も書かれていました。自殺したことは知っていましたが、そのようにして亡くなったことははじめて知りました。

今まで読んだ太宰治の作品では、(結構読んだはずなのに、走れメロスと、人間失格しか思い返せないのはどうしてだろう)走れメロスが好きです。

もう一度、太宰治の作品を読んで、思い返す事ができるよう、記録していきたいです。

2013年9月15日日曜日

深夜特急1 香港・マカオ

こんにちは。

今日は、深夜特急1、という本を読み終えたので記録します。

著者:沢木耕太郎
発行所:新潮社

深夜特急のシリーズは、全部で6巻あります。

その第一巻であるこの作品は、三洋書店の古本コーナーで¥200という安さで売られており、兼ねてから読んでみたかったこともあり購入しました。

裏表紙の概要のような記述をみると、沢木耕太郎が26歳の頃の旅の物語であることがわかります。

僕より少し年上で、自身も世界を旅してみたいという思いから、この作品に出会ったのは、偶然ではないように思います。

物語の中盤あたりで、作者が博打にハマってしまうのですが、その博打の名前が「大小」と書いて「タイスウ」と読みます。

ルールは結構簡単な気がします。三つのサイコロが転がり、その目の数字について賭けます。

賭けることができるのは、大、小、ゾロ目の3パターン。

この博打について、ディーラー達とお客さん、そして作者の様子が、文章を読んでいると映像として想像できます。

深夜特急が書かれた年は、末巻にあるコピーライトが1986年だったので、おそらく25年以上は前ということになります。

今と当時では、いくらか様子は変わっているのでしょうか。
物価もだいぶ上がっているかもしれません。
大小という博打をやってみたいと思いましたが、作者のように、負けているのにまた賭けることは僕にはできないように思いました。
実際打ってみないとわかりませんが...。

サンドウィッチを三文治、コーラを可楽と書くのは面白いと思ったし、iPhoneでコーラと打つと、予測変換で可楽が出てくるのは意外でした。

末巻に書いてある、沢木さんと山口さんの対談も、面白かったです。
パリでは、年明けのカウントダウンに、そんなことしちゃうのか、といったことや、沢木さんが卒業前にはあまり外国に目が向いてなかったことなどが書いてあります。

深夜特急2 マレー半島・シンガポールも、読んでみたいと思います。


オツベルと象

こんにちは。

今回も、宮沢賢治の作品を記録します。

オツベルと象、という作品です。

気のせいかこのオツベルと象、リズムがいいというか、テンポ良く読めました。

例えば次のくだりがそうです。

ところがそのときオツベルは、ならんだ器械のうしろの方で、ポケットに手を入れながら、ちらっと鋭く象を見た。

どうでしょう、一定のテンポを感じませんか?

次の小節も、リズムを感じます。

百姓どもはぎくっとし、オツベルもすこしぎょっとして、大きな琥珀のパイプから、ふっとけむりをはきだした。

途中で象の鳴き声に、「グララアガア」という表現がされているのだが、当時はそのような表現がされていたのでしょうか。

注文の多い料理店、でも登場する「くしゃくしゃ」という表現が、このオツベルと象でも登場します。

あまり良い意味では、オツベルと象でも、注文の多い料理店でも、使われていませんでした。

そして、一番最後の一節が、すごくひっかかりました。と同時に、この一節が、この物語に独特の雰囲気を与えている感じがします。

注文の多い料理店


こんにちは。

第一回目の投稿は、「銀河鉄道の夜」にします。

作者:宮沢賢治

いきなり、山がものすごいからと、犬が死んでしまいます。

この作品は、以前読んだことがあったのですが、その時は、あまり理解せずに読み飛ばしていました。

なので、改めて読んでみました。

以前読んだ時も感じたことですが、「注文の多い料理店」を読むと不思議な世界に入り込んでしまいます。

はじめ読んでいると、舞台はイギリスの山奥らしいということが伺えます。宮沢賢治の作品は、舞台がどこなのかわかりづらい気がします。

この作品に関して言えば、少し不気味な雰囲気を冒頭部分からは感じます。


疑問点:
二人の一片紙くずようになった顔は、なぜ元に戻らなかったのか。作者の宮沢賢治は、この作品で読者に何を伝えたいのか。


2013年9月13日金曜日

このブログについて

はじめまして。

SHINYA MIYAGIです。

オススメの一冊、というブログを始めました。

このテーマのブログをはじめた理由は、僕が常日頃からやみくもに読んでいる本を、記録がてらに残しておこうと思ったのがきっかけです。

以前は、小さいノートなどに読破した日付や作者や著書のタイトルを記録していたのですが、記録したい時に手元に無い、などの理由から、記録することをいつしか辞めてしまっていました。

テクノロジーがものすごいスピードで進んでいくこの現代社会において、アナログ的な記録ではなく、デジタルでデータ化することで、いつでも記録したいときに記録することができると思い、ブログにしようと思いました。

タイトルはオススメの一冊ですが、主に僕が読破した本のデータとその感想を書こうと思っています。