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2017年2月12日日曜日

時間

みなさんこんにちは。

沖縄では一足早く、桜が咲いており、桜祭りが昨日まで各地で開催されていたようです。

私はというと、行ってみたかったのですが桜祭りの開催日を調べ損ねてしまい、来週にはもうどこもやっていないという残念なことに…。

でもとりあえず、来週くらいに桜並木を見てこようかと考えています。

今日は、「時間」についてエッセイを書きます。





時間


  あの時間にはもう二度と戻ることはできない。どんなに楽しい時間を過ごしたとしても、もしくはどんなに悲しくて辛い時間を過ごしたとしても、その瞬間には二度と戻ることはできない。この世界がパラレルワールドで、世界がいくつもあって、僕と同じ姿をした人物がどこか知らない世界にいたとしても、それは僕ではないのだから。  
  あの時間に戻りたい。記憶を手繰り寄せて想像する。楽しかった時間、素敵な時間を思い出す。素敵で楽しい時間だったはずなのにどうして一旦思い出に変わると切ないものになってしまうのだろう。

  そういうことを考えると、誰かと一緒に過ごす時間というものはきっと、もっと大切にするべきなんだと思う。

  人は誰であれ、生まれた時から「死」に向かって絶対的な時間軸を進んでいく。時間の流れ方はそれぞれ違うかもしれない。ゆっくりとした時間、すごく早い時間。もしあなたと私とで、流れている時間が違っていたら、どういうことになるだろう。たとえ流れる時間は違っても、あなたと共に時間を過ごしたい。流れる時間が違っても、時には私があなたに追いつき、時にはあなたが私を待ったり、そういう風に時間を過ごせば楽しいでしょう。

  時間は不思議な概念だと思う。そこに当たり前にあるようで、はっきりしたことはよくわからない。時間って何と問われても、「そこにあるもの」としか私は答えることができない。アインシュタインならどう答えただろう?ただ言えることは、時間があるから生きて行ける。それだけは、たぶん間違いない。







2016年3月17日木曜日

思考について

みなさんこんにちは。
今日は、ショーペンハウアーの『読書について』を読み始めてから思ったことを含めて、思考についてというテーマでエッセイを書きました。





この世には、二種類の人間がいると思う。自分の頭で考える人と、そうでない人だ。

自分で考える人は、あれこれと考えを巡らせ、次に何をするべきか指図されずとも自ずと進むべき道を見出す。その道は正しい道かどうか定かではないが、論理的に自分の頭で導き出した道であれば、その道を行くにはそれほど不安を覚えないだろう。

自分で考える人は、信念や自信というような、自分はこの世の中の一員だと信じて疑わない思いを持っているように思う。他者とも対等に話し、礼儀をわきまえ、見ていて清々しい気持ちにさせてくれる。自分の考えに迷いや躊躇いがないため、その力溢れる思考が精神の外、すなわち行動として精神の外に出た時、その行動は輝いて見える。
自分の考えをしっかり持っている人は、周囲に流されにくいと思う。
そう思う根拠は、科学的根拠とは言えないが、私は自分の頭で考えることが得意ではなく、周囲の意見にすぐ流されてしまうからである。

自分を反面教師にして、二種類の人間像について語っているわけである。
自分のことについて、事例を出すとしよう。

たとえば数学の参考書を読んでいるとしよう。テーマはユークリッド幾何学であり、「ある2つの三角形が相似であることを証明しなさい」という問題が出たとき、自分の頭で考える人とそうでない人とでは、両者のとる行動は全く別のものになるであろう。
自分の頭で考えない私の場合、少し図形を眺めて、お手上げだと思った数秒後には巻末の解答例を見てしまう。しかし、論理的思考力があり、自分の頭で考える人は、巻末の解答例など意に介さず、自分で答えを導き出すに違いない。たとえ導き出した証明方法が解答例のそれとは異なっても、自ら出した証明方に誇りを持つであろう。

このことは、ショーペンハウアーが『読書について』で書いていることに少し似ていると思う。彼は、本を読むことは、自分で考えることをせず、他人に(この場合は本の著者)思考を任せていることに他ならないと述べている。巻末の解答例、それは他者が考案した解答であり、自ら考え抜いた代物ではない。

自分の頭で考えることについて考えてみると、現代社会には、自分で思考しなくても生きていける要素が多分あるように思う。テレビやラジオ、スマートフォンの普及によって、誰でもインターネットに24時間アクセスすることができる時代になっている。これらを私たちはメディアと呼んでいるが、メディアからは他者による思考が溢れかえっている。
メディアという概念がなかった時代を想像してみた。テレビがなかった時代、人々は仕事を終えて何をしていたのだろう。仲間たちと語らっていたのか?夜空にきらめく星々を眺め、あの星々は地球の周りを回っているのか、違うのかなど議論したりしていたのか?そうだ、現代社会に生きる私たちよりはずっと、何かを自分の頭で考える時間があったに違いない。

私は本日より、できるだけ自分の頭で考える時間を多く持ちたいと考えている。自分の人生、自分の頭で考えて決断を下し、決めて行動したことについてきちんと責任を取れるような人でありたいし、自信のある行動をしたい。

2016年3月13日日曜日

私の仕事観

みなさんこんにちは。
オーストラリアから帰ってきて、家でごろごろしている休暇に飽きてきたので、仕事するってなんだろう、というテーマでエッセイを書いてみました。






私は何かと地に足が着いていないように思われる。
それは、自他共に認めているようである。
働くこととは一体どういうことなのかということについて、この機会に考えてみようと思う。
ひとは生きていくために栄養のあるものを食べなければならない。
衣食住、それは人間が生きていくために必要なものである。
衣食住を整えるためには、お金が要る。
お金を稼ぐためには、労働の対価としてお金を得る必要がある。
または、お金を得る手段として、自分で価値のあるものを生み出し、その対価としてお金を得る方法もあるだろう。
思うに、自分で何かを始める場合、初期投資が必要だったり、厳密に練った計画案が必要だったりするかもしれない。
そういうことが私には億劫に思うし、もともと貯金が少ない私にはできないというか、してみたいけど今はできないと言った方が適切のように思う。

よく、「好きなことを仕事にしなさい」とか、「人生好きなことをして生きていけると幸せだ」と私の周りの年長者たちが口にするのを聞く。
また一方で、「好きなことは趣味でよいから、福利厚生や給料のよい正社員、公務員などになりなさい」という大人も多い。
不景気と言われて久しいこの御時世なので、そういう大人たちの言い分も理解できる。
私にとってどちらが良いのか考えてみても、好きなことを仕事にするには結構なお金が必要そうなので、好きでもないことをしてお金を稼ぐ方が、生活していくには手っ取り早い気がして、結果的にまずはなんでも良いから働いてみよう、という気持ちになってくるのである。
とりあえず働いて、余暇で好きなことをして、その好きなことで少しづつお金を得ることができたら良いな、みたいな気持ちが私の中にはある。
私の好きなこと、とは、音楽であり、読書であり、たまにこうやって文章を書いたりもするのだが、文章に至っては、一つの小説を完成させたこともない程度である。
プログラミングにも興味があるので、後々はDTM(
Desktop Music)の腕を磨いて作曲して、自分でホームページを作って音源を売り出してみようかな、なんて妄想したりもする。

仕事はなんだかんだ言って、面白いものだと思う。仕事を通して人との良い出会いもあれば、嫌いで苦手な人と出会うこともあるだろう。仕事で出会った嫌いで苦手な人は、もし違う場所で会っていたら、仲良くなっていることだってある気がする。
責任あるポジションに任命されてしまった暁には、メンツやプライド、プレッシャーというストレスフルなことが体に悪影響を及ぼす時もあるだろう。
あるプロジェクトのリーダーになったり、大きな取引を任されたり。
そんな役職に就いている人たちを、私は尊敬するし、いつか挑戦してみたいとも思っている。

今の若者に、「将来は社長になりたいか」と質問すると、「そんなになりたいとは思わない」と回答する人が多いということを友人が言っていた。
どうしてだろう。日本が不景気だからか?いや、この質問は日本の社長だけに限定されているのか?社長は大変そうなイメージなのか?根拠のある答えは出てきそうにない。

2015年10月18日日曜日

陽気な日 昼 (自作小説)

みなさんこんにちは。
今日も自作小説、小説というかエッセイのような感じになっていますが、書いていこうと思います。
余談ですが、MacBook Airを使用して書いているのですが、os x el capitanにアップデートしたためか、勝手に漢字に変換する機能が追加されたのか定かではありませんが、この機能のおかげでタイピング速度が速くなったような気がしました。
el capitanについても別のブログでまとめられたらなあと思っています。




私がチャッツウッドに向かうのにはいくつか理由があるのだが、まず彼女に会いに行くためである。同棲していないため、少しの時間でも会いたいという気持ちが働き、彼女の仕事の空き時間や、仕事が終わる夜遅くにも頻繁にチャッツウッドに通うことが多くなっていた。

シティからチャッツウッドまで、ウィンヤード駅から約25分、普通列車だと最大でも30〜35分程度で行くことができる。

ぽかぽかした土曜日ということもあり、6月7月に比べて人通りが多くなっていることに気づく。ほとんどの通行人がサングラスをかけ、男性は半袖に短パン、ある女性はノースリーブを身につけ胸元を大胆に開けている人も見られる。
日本に比べて、肌の露出が多いな、と少し気に留めながら歩いてウィンヤード駅へ向かった。

電車に乗り込むと、心地よい空調の冷気が皮膚に触れる。座席を探し、丁度良さそうな席へ腰掛け、スマートフォンを眺めた。

メールが数件、ほとんどが登録してあるサイトの通知だったり、フェイスブックの投稿である。ミートアップへ参加するかどうかを確認する出欠確認のメールが少し気になったが、とりあえず削除はせずに残しておくことにした。

2週間前に参加したミートアップと同じものであり、この間参加した時はベトナム人や韓国人、インド人といった他国の人たちと、お酒を飲みながら英語で交流することができた。

その中にはテンションの高い韓国人女性がおり、あまりハイテンションになることがない私は、新鮮で多少楽しい時間を過ごすことができたので、気が向いたら再度参加してみようと思っている。

必要のないメールを削除し終わった頃、窓の外を眺めると、ハーバーブリッジを通過するところだった。空にはポツリ、ポツリと雲がふわりと浮いている。上空には青い空、橋の下には青い海、青い色は好きである。オペラハウスは見えないかと、探してみたが、一般車両が通行する一般道に隠れて見ることができなかった。まあ、そんなにうまく見えないよな、と思いながら、再びスマートフォンに意識を向ける。

世の中便利になったものだ。何冊も本をカバンの中に入れて持ち運ばなくても、スマホ一台あれば、読むことができる。
紙媒体の方がしっくりくる、という人もいるが、場所を問わずに好きな書物を読むことができることは素晴らしいことであると思う。

数字の0と1の世界、コンピューターの世界をもっと知りたいと最近考える。パソコンは、2進法しか理解できないらしい。その理由など、何かのサイトで見たが、忘れてしまっていた。人間の脳は、何かと忘れっぽいようだ。
長期記憶にするためには、人に説明出来るくらいにならなければいけないらしい。

いろんな本を読んできたが、読んだもの全てを説明出来るほど私の頭は高性能ではないようだ。
ハーバーブリッジを通過し、3駅ほど郊外の駅を通り、いよいよチャッツウッドへ到着した。

電車を降り、エスカレーターで階下に向かい、改札をくぐる。改札の向こうにはMcDonald’sやブレッドトップ、寿司屋などの店舗が並んでいる。アジア人が多く、シティと比べると清潔感のある町である。お腹がなり、空腹を覚えたので、ブレッドトップでパンを3つほど買った。

「さて、彼女の昼休みまで何をして過ごそうか…。」と考え、いつものように、良さそうなカフェで時間を過ごすことにした。
ブレッドトップのある通りから、大きなショッピングモールのあるストリートへ向かう。ビクトリアアベニューは両脇にカフェやデザートショップなどが並ぶストリートで、中央にはベンチやちょっとしたスペースがあり、時々各国の出店が出店することもある、素敵なストリートである。

今日も出店があるらしく、中東っぽい出で立ちをした男性が、テントの準備をしていた。


<つづく>